シューティングラーヴェ(はてな)

シューティングラーヴェの移行先

鬱陶しい駄文という名の分析と理想論

祖父が死んでしばらく経つ
祖母は歩けない状態なので、生前から飼っている犬の世話をしに立ち寄る機会が増えた。
犬は大変カワイイ奴なので、割と人気者だ。近所にも名前が知れ渡っている。

だが多分、祖母はそうではない。
電話越しの誰かに 『歩けなくなったのは罰だ』 だの 『判断能力がなくなっている』 だのと親が言ってるのを聞いた事がある。
生きていて欲しいとは、思われていないのだろう。

判断能力が無い つまりはボケが始まってもう会話する能力が無い――と思われているようだが
俺は余りそう考えてはいない。
確かに耳は遠く、一回では伝わらない事も多いのだが
余り難しい言葉を使わず、わかりやすい言葉を選んで話していけば、普通に会話できる。

ただ、一度区別されてしまったら、それは覆り辛いとも思う。
誰かがその人を 『心の病気』 だとカテゴリーしたとして
その人の扱いは、人間である前に病人として扱われてしまう。

そういう経験をしたはずの、病人扱いして欲しくないと、一度でも思った人間が
ボケで会話が成立しない、判断能力が無いと勝手に決め付けているのを見ると、複雑な心境になる。
それを言われた時自分がどう思ったのか、もう忘れてしまったのだろうか、と。

ただ、そうした方が楽なのだというのも、また事実なのだと思う。
実際、俺が祖母と会う機会はそこまで多くない
できる時に会い、必要とされた時に会っているだけ
四六時中顔を付き合わせている人にしかわからない顔、わからない苦労は山ほどあるのだというのも、わかる。
そういった状態で 「こいつは何でこんなこともわからないんだ」 と思うより
「コイツは○○だからもう仕方ないな」 と思った方が、心的負担は少ない
実際、祖母以外でそうなりかけた経験もある。

経験といえば、俺は小学校で6年程いじめの類を受けていた。
それは度々問題になり、HRで議題にされたりもした。
だけど、俺はその後に漂う『特別扱い』が凄い嫌いだった。
○○君には優しくしましょう、そう決まった後の空気に耐えられなかった。

俺は『普通』というのが割と嫌いだ 個性大好きな厨ニ病患者だ
だけど、あの時の『特別』は心底嫌だった
それは矛盾してたよなぁ、と今でも度々思い返す事もあったけれど、違ったのかもしれない。

結局あの時特別扱いされていたのは『いじめられていた誰か』であって、自分ではない。
誰も自分を自分として見ていなかったのだから、それを嫌うのに何の矛盾もなかったんじゃないだろうか。

もしかしたらいじめというのが心的苦痛になるのは
単純に嫌な事をされるから、ではなく
誰からも自分を自分として、認識してもらえなくなるからではないだろうか








――等と、こんな朝っぱらからどうでもいい事を考える。
とにもかくにも、俺はあの時の感情は忘れたくないと、今でも思う。
外国人の友人の国籍を特に気にせず過ごしていたら出身国を忘れて、怒られる事もあったけど。
心底嫌いな人だったり好きな人だったりで普通の人だったりしても、その人はその人として

もし他の人の言うように祖母が悪い人間だったとしても
最後まで、祖母は祖母として